東京地方裁判所 昭和63年(行ウ)69号 判決 1990年4月17日
原告
伊東佐智子
右訴訟代理人弁護士
前田健三
同
森越清彦
被告
社会保険庁長官小林功典
右指定代理人
古谷和彦
同
醍醐保江
同
堀江裕
同
黒瀬俊和
同
佐々木康幸
同
澤隆彦
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 被告が原告に対して、昭和六一年一〇月二日付けでした船員保険法(昭和六〇年法律第三四号による改正前のもの。以下同じ。)に基づく被保険者伊東博が職務外の事由により死亡したことによる遺族年金を支給する旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求の原因
1 本件事故の発生
原告の夫で船員保険の被保険者である伊東博(以下「博」という。)は、訴外株式会社富士サルベージ所有の第五新高丸(六五四トン。以下「本船」という。)に一等機関士として乗り組み、北海道八雲地区大規模増殖場造成工事に従事していたところ、昭和六〇年三月一五日午後一〇時ころ、北海道山越郡八雲町山崎地崎海岸沖合約二〇〇メートル付近において、同所に仮停泊中の本船右舷船尾部付近から海中に転落し、溺水したことにより、同日午後一一時一〇分ころ、同町立八雲病院において死亡した(以下「本件事故」という。)。
2 本件処分及び不服申立て
(一) 原告は、昭和六一年一月一〇日、被告に対し、本件事故による博の死亡につき、船員保険法五〇条一項三号に基づく被保険者が職務上の事由により死亡したことによる遺族年金の支給の裁定を請求したが、被告は、同年一〇月二日付けで、博の死亡が職務上の事由によるものとは認められないとして、原告に対し、同法に基づき、被保険者が職務外の事由により死亡したことによる遺族年金を支給する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。
(二) 原告は、本件処分に対し、昭和六一年一二月一一日に北海道社会保険審査官に審査請求をしたが、同審査官は、昭和六二年三月二七日付けで右審査請求を棄却する旨の決定をした。原告は、さらに、同年五月二一日に社会保険審査会に再審査請求をしたが、同審査会は、昭和六三年三月三一日付けで右再審査請求を棄却する旨の裁決をした。
3 職務上の事由の存在
(一) 船員保険法上、被保険者又は被保険者であった者(以下「被保険者等」という。)が事故によって死亡した場合に、それが職務上の事由によるものであるとされるためには、当該事故が職務遂行性及び職務起因性の各要件を満たす必要があるものと一応考えることができる。
(二) 本件事故当日、本船の作業は午後四時ころに終了したが、翌日の作業に備え、帰港せずに八雲町山崎地崎海岸沖合約二〇〇メートル付近の海上で船尾両舷錨を投入して仮停泊していた。もっとも、本船の船長である和泉巳代吉(以下「和泉船長」という。)は、同日午後五時ころ博らに繋船の安全を確認するよう指示した上で通船を利用し下船した。博は、同日午後六時ころから、本船食堂で他の乗組員と共に夕食をとり、その後、午後九時五〇分ころ、就寝前に気象、錨索の状況、その他本船の安全を確認するために、食堂から船尾甲板に出た後、午後一〇時ころ、右舷船尾にある錨索の降下のための開口部(以下「本件開口部」という。)から海中に転落したものである。
右のとおりであるから、本件事故が職務遂行性及び職務起因性の各要件を具備するものであることは明白である。
(三) 仮に、博が船尾甲板に出た理由が、気象、錨索の状況、その他本船の安全を確認するためではなく、小用をたす等のためであったとしても、次のとおり、本件事故による博の死亡は職務上の事由によるものとされるべきである。
(1) 船員は、船舶の航行中は、たとえ休憩時間中であっても船舶所有者の支配下にあるから、その間に生じた事故については特段の事由の存在しない限り、職務遂行性が認められるものというべきである。しかして、本件事故は、沖合約二〇〇メートルの海上に仮停泊中の本船内で、当日の作業終了後の休憩時間中に生じたものであるが、仮停泊中といえども、沖合にある以上は、船舶は荒天等の絶えざる不測の危険にさらされているのであって、船内にある船員は、これらの危険に対処し、事故を防止して船舶の安全を保持する義務を分担履行することが要求されているのであり、その意味で、航行中の船舶内にある休憩時間中の船員と同様、完全な自由時間中であるわけではなく、未だ船舶所有者の支配下に置かれているものである。したがって、右特段の事由の存在しない本件事故については、職務遂行性が認められるものである。
(2) 右のように休憩時間中であっても、船舶所有者の支配下にあった際の事故であると認められることによって、本件事故について職務遂行性が肯定される以上は、本件事故が、休憩時間中の私的な行為、特に小用をたすような通常有りうる生理的必要行為によって生じたものであるとしても、当然に職務起因性が認められるべきである。なぜなら、職務起因性とは、職務と事故との間に相当因果関係が存在することをいうものであるところ、ここにいう職務とは、職務遂行性の判断における拡張された職務概念と同一の概念であると解すべきであるから、休憩時間中の私的な行為であっても、当該行為と事故との間に相当因果関係が認められれば、職務起因性を肯定できるからである。このように解さなければ、職務上の事由を職務遂行性及び職務起因性の両要件に分類する意義が失われることになる。
(3) したがって、本件事故は職務遂行性及び職務起因性の各要件を満たすものというべきである。
(四) なお、本件事故当時、博が転落した箇所である本件開口部に転落防止のため設けられていた鎖は外されており、かつ、同所を照らす照明設備が故障していて、同所に照明はなかった。そして、これが博の転落の大きな要因であったことは明らかであるから、本件事故は船舶施設の欠陥によるものということができる。
しかして、このような事故が船舶(事業場)施設に起因して発生したことは、職務上の事由に関する職務遂行性及び職務起因性とは別個の独立した要件であり、船舶施設と事故との間に因果関係が認められる以上、職務遂行性及び職務起因性の存否を問うまでもなく、それだけで職務上の事由に該当するものと解すべきである。
(五) したがって、いずれにしても、本件事故による博の死亡が職務上の事由によるものであることは明らかである。
4 以上のとおり、博は職務上の事由により死亡したものであるから、同人の死亡が職務上の事由によるものとは認められないとして、原告に対し、被保険者等が職務外の事由により死亡したことによる遺族年金を支給する旨の本件処分は違法である。
よって、原告は、本件処分の取消しを求める。
二 請求の原因に対する認否
1 請求の原因1及び2は認める。
2(一) 同3の(一)は認める。
(二) 同(二)のうち、本件事故当日の作業が午後四時ころに終了したが、翌日の作業に備え、八雲町山崎地崎海岸沖合約二〇〇メートル付近の海上で仮停泊していたこと、和泉船長が下船したこと、博が同日午後六時ころから本船食堂で他の乗組員と共に夕食をとり、午後九時五〇分ころ食堂から出て、午後一〇時ころ海中に転落したことは認める。博が食堂を出た理由が気象、錨索の状況、その他本船の安全を確認するためであること、本件事故による博の死亡が職務上の事由によるものであることは否認する。その余は不知。
(三) 同(三)ないし(五)は争う。
3 同4は争う。
三 被告の主張
1 船員保険の被保険者等が職務上の事由により死亡したときは、被保険者等の遺族に対して遺族年金が支給される(船員保険法五〇条一項三号)。しかして、被保険者等の事故による死亡が職務上の事由によるものとして認定されるためには、その事故が職務を遂行している間に発生したものであること(職務遂行性)及びその事故と職務との間に相当因果関係が存在すること(職務起因性)の二要件を具備していることが必要である。
2 (一) 職務遂行性の要件における職務には、労働契約の内容をなし、労働者がその本旨に基づいて行う所定の就業行為のみならず、当該労働契約によって生じた使用者と労働者との間における使用従属関係において労使双方が予定している行為又は社会通念上当然予定される行為も含まれるものである。
しかして、船舶に乗船中の船員については、船内労働の特殊性により船舶が出港してから入港するまでの間、船舶所有者(使用者)と船員との間に右のような使用従属関係が継続して存在するとはいえるが、その間の行為すべてに職務遂行性が認められるわけではなく、そのような特殊な状況下においても、なお、船舶所有者と船員との間の労働契約に基づく拘束の程度の少ない自由時間はあり得るのであり(なお、船員法四条は、同法の労働時間につき、上長の職務上の命令に基づき航海当直その他の作業に従事する時間をいうとし、同法七三条に基づく小型船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令(昭和四二年運輸省令第三一号)三条は、本船を含む小型船に乗り組む海員の労働時間を原則として一日について八時間以内、一週間について五六時間以内に制限しているのであるから、これらの法令においては、右の労働時間以外の時間を、船員に対する拘束時間としていないことは明らかである。)、ましてや、乗船中であっても、仮停泊中の外出や飲酒酩酊など、職務遂行と相容れない職場離脱行為があるときは、その間の行為に職務遂行性を認めることはできない。
(二) しかるところ、本件事故当時、本船は、当日の作業を終了して沿岸より約二〇〇メートル沖合に仮停泊中であり、天候は晴れ、風向風速は北西一メートルという気象状況のもと、海上は平穏で、博が本船の見回りその他の職務命令を受けた事実もなく、下船を希望すれば当然に認められる状態にあったのであるから、翌日の作業開始までの間は、博にとって極めて拘束性の乏しい休憩時間であった。なお、和泉船長は、下船の際に、職掌の順位に従って一等航海士である立花一之(以下「立花」という。)に職務の委任をしたものであり(船員法一一条、なお、二〇条参照)、原告主張のように、博らに繋船の安全を確認するよう指示をした事実は存在しない。
これに加え、博は、同日午後六時ころからの食事時間に他の船員と共に飲酒を始め、事故直前の午後九時五〇分ころまでの間に日本酒約一・〇八リットル程度を飲んで、酩酊状態にあり、職務を遂行することが困難な状況であった。
したがって、本件事故当時の博の行為に職務遂行性を認めることはできない。
3(一) また、職務起因性とは、当該事故が当該職務に内在する危険の現実化したものと経験則上認められる場合、すなわち、職務と事故との間に相当因果関係がある場合をいう。それ故、休憩時間中に私的行動をとっていて生じた事故については、労働者が事業場施設内にあり、使用者の支配管理下にあったとしても、当該事故が事業場施設に起因して発生したときに限り職務起因性が認められるのであり、さらに、この場合、使用目的が限定され他の目的に利用されることが全く予定されていない事業場施設を、労働者が本来予定された用途以外に利用した際に生じた事故は、そのような利用さえしなければ起こり得なかったといい得る関係にあれば、事業場施設が保有する危険に起因するものとは認め難いので、職務起因性を認めることはできない。
(二) しかるところ、本件事故当時、博が休憩時間中であって、かつ、事故直前までの飲酒によって酩酊状態であったことは、2の(二)のとおりであり、しかも、事故当時の状況から、博は多量の飲酒により尿意を催し、小用のため本船食堂から出て船尾甲板に向かい、海中に転落したものであると推定し得るところ、本船には右食堂に隣接して便所が設けられており、また、自航式起重機船としての船体構造上、本船の安定性は高く、2の(二)のとおり、天候は晴れ、風向風速は北西一メートルという気象状況のもとで海上が平穏な状態にあった本件事故当時においては船体の動揺はなく、かつ、本件事故当時、船尾甲板を照らす照明は点灯しており、本件開口部に転落防止のため設けられていた鎖も掛けられていたのであるから、本船の船舶自体及び施設に転落の原因となるような点は存在せず、本件事故は、博が私的な飲酒行為による酩酊状態のもとで自ら引き起こしたものというべきであって、職務起因性を認める余地はない。
四 被告の主張に対する原告の認否
1 被告の主張1は認める。
2(一) 同2の(一)のうち、職務遂行性の要件における職務に、労働契約の内容をなす所定の就業行為のみならず当該労働契約によって生じた使用者と労働者との間における使用従属関係において労使双方が予定している行為又は社会通念上当然予定される行為も含まれること、船舶に乗船中の船員については、船内労働の特殊性により船舶が出港してから入港するまでの間、船舶所有者と船員との間に右のような使用従属関係が継続して存在することは認め、その余は争う。
(二) 同(二)は否認する。
仮に、博が飲酒をしていたとしても、その量は明らかでなく、博が酩酊状態にあったとはいえない。
3(一) 同3の(一)は争う。職務起因性の要件及び事故が事業場施設に起因して発生した場合については、請求の原因3の(三)の(2)及び(四)のように解すべきである。
(二) 同(二)は否認する。
第三証拠関係(略)
理由
一 請求の原因1及び2の各事実は当事者間に争いがない。
二 原告は、博の死亡が船員保険法五〇条一項三号所定の職務上の事由によるものである旨主張するので、この点について判断する。
1 本件事故の経緯について
請求の原因3の(二)のうち、本件事故当日の作業が午後四時ころに終了し、翌日の作業に備えるため、八雲町山崎地崎海岸沖合約二〇〇メートル付近の海上で仮停泊していたこと、和泉船長が下船したこと、博が同日午後六時ころから本船食堂で他の乗組員と共に夕食をとり、午後九時五〇分ころ食堂から出て、午後一〇時ころ海中に転落したことは当事者間に争いがなく、右各事実及び一の事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 本件事故当日、本船は、北海道山越郡八雲町山崎地先(ママ)海岸沖合約二〇〇メートル付近において大規模増殖場造成工事(テトラポッドの撤去作業)に従事し、午後四時ころ当日の作業を終了した後、翌日の作業に備えるために、同沖合に船尾両舷錨を投入して、仮停泊することとなったが、和泉船長は、作業終了後間もなく、一等航海士である立花に後を頼むという程度の声を掛けて下船し、本船付属の通船を利用して上陸した。
(二) 和泉船長を除く他の乗組員は、午後六時前後に本船食堂で夕食をとったが、その際、博、立花及び甲板員である松本家明(以下「松本」という。)は、食事とともに日本酒を飲み出した。そして、三〇分程度で食事が終了し、他の乗組員が食堂を離れた後も、博及び立花は、そのまま、食堂に残って飲酒を続け、午後九時前後に、松本及び甲板員の澤村義弘(以下「澤村」という。)が食堂に来て飲酒に加わった。
(三) 午後九時五〇分ころ、博は、格別改まった様子もなく、食堂の右舷船尾甲板に向かう出入口からひとりで食堂を出たが、そのまま戻らなかったところ、その数分後に同じ出入口から食堂を出た松本が、右舷船尾甲板に博の履いていたサンダルが片方落ちているのを発見し、博が海中に転落したものと考えて、他の乗組員を呼び集め、捜索をした。その結果、午後一〇時ころ博が左舷船尾付近の海中で錨索につかまって浮遊しているのを発見したので、これを救助して、人工呼吸を施した上、立花及び松本が付き添って、通船及び救急車で八雲町立八雲病院に搬送したが、博は午後一一時一〇分ころ急性心不全のため死亡した。
(四) 本船右舷船尾甲板の博のサンダルが落ちていた付近には、本船が停泊する際に、錨を投入し、あるいは岸壁に繋船索を渡す作業をするために設けられた甲板の手すりのない部分(本件開口部)が存在するところ、本船には、食堂に隣接して便所が設けられていたが、乗組員の多くは、平常、本件開口部において海中に向かって小用をたしていた。なお、本件開口部には、その片側に鎖が取り付けられていて、これを掛け渡すことにより、開口部分を遮って、転落防止の役割を果たすようになっていた。
(五) 本件事故当日の天候は概ね平穏に推移し、午後八時現在の気象状況は、晴れで、西北西の風、風力二であり、海上は穏やかな状態で船体の動揺はほとんどなかった。
以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定と齟齬する部分は、前掲各証拠に照らして措信し得ない。
2 博が食堂から船尾甲板に出た理由及び転落箇所について
(一) 原告は、博が、和泉船長からその下船の際、繋船の安全を確認するよう指示を受け、就寝前に気象、錨索の状況、その他本船の安全を確認するために食堂から船尾甲板に出て右舷船尾の本件開口部から海中に転落した旨主張し、原告本人尋問の結果中には、原告が本件事故の翌日である昭和六〇年三月一六日の未明に八雲町立八雲病院で和泉船長と会った際に、同船長から博に頼んで下船したと聞いた旨の部分が存在する。
(二) しかしながら、仮に、右供述のとおり、和泉船長が下船の際に博に対して「頼む」というようなことを申し向けたとしても、右言辞は極めて曖昧であって、それが、自己の下船後に船長の職務を行うべき旨の委任や船舶の安全を確認すべき具体的な職務命令であるとは捉え難い上、船員法一一条は、船長は、自己に代わって船舶を指揮すべき者にその職務を委任した後でなければ、荷物の船積、旅客の乗込の時から荷物の陸揚、旅客の上陸のときまで、船舶を去ってはならないことを、また、同法二〇条は、船長が船舶を去った場合において他人を選任しないときは、運行に従事する海員は、その職掌の順位に従って船長の職務を行う旨をそれぞれ定めるところ、(証拠略)によれば、本船においては、船長不在の場合のその代行者は、予め、一等航海士である立花、機関長である木村殊、一等機関士である博の順に定められていたことが認められ、また、1の(一)のとおり、和泉船長は下船の際に、立花に対し、後を頼むという程度の声を掛けていったのであるから、和泉船長の下船後は、予め定められているとおり立花が船長の職務を行うものというべく、また、和泉船長自身もそのように意識して下船したことが推認され、そうだとすると、和泉船長が、立花と並んで博に船長の職務を行うことを委任したというようなことはもとより、自己の下船後の本船の安全確保に関する職務命令を、立花をさしおいて、直接博に対してしたということも考え難いといわなければならない。
また、(証拠略)によれば、博は、本件事故当時、船舶職員法所定の海技従事者の免許としては、海技士(機関)の資格である五級海技士(機関)の免許のほかに、海技士(航海)の資格である三級海技士(航海)の免許をも取得しており、右の資格は、和泉船長及び立花の有する海技士(航海)の資格よりも上級であったことを認めることができるが、単に、博が船舶職員法上の上級の海技従事者の免許を有していたということのみでは、本船における実際の職掌の順位にかかわらず、和泉船長が博に船長の職務の委任や右のような職務命令をしたと推認することはできない。
したがって、原告の前記供述は、採用することができない。
(三) また、(人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、本件事故当日の海上が平穏な状況であったことにより、仮停泊に移って後は船舶の安全確保等のための格別の作業を必要としなかったため、各乗組員は作業終了後は拘束時間外である休憩時間とされて、適宜、休養、娯楽等に当てることが可能であったし、また、飲酒や、希望すれば下船しても差し支えなかったこと、本船においては、従前から、かかる仮停泊中の休憩時間においては、当直を立てるようなことをせず、船舶の安全確保の責任者である船長又はこれに代わり船長の職務を行う者から格別の職務命令のない限り、各乗組員において見張りや船内の状況の見回り、点検等をするようなことはなかったこと、本件事故当日の右休憩時間において、(二)のとおり、下船していた和泉船長に代ってその職務を行うべき立花は、博に対し、見張り、船内の見回りその他の職務命令を与えたことはなかったことを認めることができる。なお、(証拠略)によれば、本件事故当日の本船の作業について作成された作業日報には、博、和泉船長及び賄員兼甲板員である菊地惣一郎を除き、本船の乗組員の作業終了時間が二四時と記載されていることが認められるが、(証拠略)によれば、右の作業日報に作業終了時間が二四時と記載されたのは、本件事故が発生して博の捜索、救助活動をしたことを考慮して事後的に二四時までを拘束時間としたことによるものであり、このような特別の事態のなかった昭和六〇年三月一三日及び同月一四日の作業日報には、作業終了時間が一七時と記載されていることが認められるから、本件事故当日の作業日報の作業終了時間の記載は右認定を左右するものではない。
しかして、右認定事実に徴すれば、博が、船長の職務を行う者でもなく、また、格別の職務命令もないのに、自発的に本船の安全の確認のため船内を見回るようなことをしようとしたとも考えられないから、博が、気象、錨索の状況、その他本船の安全を確認するために食堂から船尾甲板に出た旨の原告の主張は失当であり、右認定事実に1の各事実を併せ考えれば、博は、右舷船尾の本件開口部で小用をたそうとして、食堂を出て本件開口部に至り、同所から海中に転落したものと認めるのが相当である。
3 本件開口部の転落防止用鎖及び照明の状況
(一) 証人松本家明の証言によれば、同人が右舷船尾甲板で博のサンダルを発見した際には、本件開口部に転落防止のため設けられていた鎖は、掛けられていなかったものと認められる。
(証拠略)によれば、本件事故の翌日である昭和六〇年三月一六日の午前八時から午前九時までの間に警察官が本船に臨場して写真撮影を行った際には、右の鎖は掛けられていたことが認められるが、右写真撮影の行われた日時に徴し、右の認定を左右するに足りない。
(二) 原告は、本件事故当時、本件開口部付近を照らす照明設備が故障していて、同所に照明はなかった旨主張するところ、原告本人尋問の結果中には、原告は、朝日生命の調査員から、同調査員が博を被保険者とする生命保険に関し昭和六〇年六月ころに本船を調査した際、本件開口部付近を照らす照明が点灯しなかったと聞いた旨供述する部分があるが、仮に右供述のとおり、右日時ころ本船の本件開口部付近を照らす照明設備に異常があったとしても、その日時に徴して、本件事故当時右照明設備が故障していたことを推認するには足りず、他に、原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。のみならず、(人証略)によれば、同人らは、海中に転落した博を捜索、救助する作業をしていた際に、右照明設備に異常があったようなことを全く認識していないことが認められるから、逆に、右照明設備には異常がなかったものと推認することができる。
4 博の飲酒量及び酒酔いの状況について
(一) 前記1の(二)の事実に(人証略)を総合すると、博は、酒好きで、夕食時に晩酌として飲酒することを常としていたところ、本件事故当日においても、夕食時から、立花の取り出したほぼ口まで一杯に入った一升瓶の日本酒を同人と共に飲み始め、さらに食事が終わって他の乗組員が食堂から離れた後も、同人と食堂に残って、二人でほぼ同じペースで飲み続けていたこと、博と立花とが右の一升瓶の日本酒を飲み終えてしまった午後九時前後に、松本及び澤村が封を切っていない別の日本酒の一升瓶を携えて食堂に来て飲酒に加わり、博及び立花を含めた四人で右の一升瓶の日本酒をさらに飲んだこと(ただし、博が右の一升瓶から飲んだ日本酒の量を明らかにするに足りる証拠は存在しない。)、松本及び澤村は博及び立花が先に飲んでいた一升瓶の日本酒は飲んでおらず、また、松本は夕食時にも日本酒を飲んだが、その際も右一升瓶中の日本酒には手を付けていないこと、午後九時五〇分ころに博が食堂を出た際、博が飲酒に用いていたコップは完全に空とはなっていなかったことを認めることができ、(証拠略)及び原告本人尋問の結果のうちの右認定と抵触する部分は前掲各証拠に照らして措信し得ない。
しかして、右事実の下で、博が立花と共に先の一升瓶の日本酒をほぼ同じペースで飲み続け、これを飲み終えたほか、量は不明ながら松本らの携えてきた一升瓶の日本酒をも飲んでいることを考慮し、他方、博が立花と飲んだ右一升瓶の日本酒がほぼ口まで一杯にあったが、一升(一・八リットル)分がそっくりあったわけではないこと及び博が食堂から出た際に博のコップが完全に空ではなかったことをも併せ考えると、博が本件事故当日の午後六時前後の夕食時から午後九時五〇分ころに食堂を出るまでの間に飲酒した日本酒の量は概ね一升の半分に当たる五合(〇・九リットル)程度であったものと認めるのが相当であり、(証拠略)中、右に反する部分は措信し難い。
(二) ところで、飲酒量と酔いの程度との関係については個人差が大きく、また、当日の体調その他の要因によって、同一人でも変化し得るものであることは、公知の事実というべきであるが、一般には、五合(〇・九リットル)程度の日本酒を飲んだ場合には、特に酒に強い体質の者でない限り、相当程度の酔いを来たすものと認められるところ、(人証略)を総合すると、博は、さほど酒に強いというわけではないが、酒好きではあり、普段から、飲み出すとくどくなって他人の話に割って入ってきたりするような酔い方をすることが多いこと、本件事故当日の博の酔いの程度について、立花、松本及び澤村のいずれも、博が普段と同程度に酔っていたと記憶しているが、さらに立花及び松本は、博がかなり酔っていたとの記憶もあるとしていること、また、松本は、午後九時前後に澤村と共に食堂に入ってきた際に、博は既に酔ってくどっぽくなっていると感じて、博と立花の話に入るのを避けるようにしたことを認めることができ、これらの事実を併せ考えると、博は、特に酒に強い体質であったわけではなく、食堂から船尾甲板に出た際には、相当程度に酔っていたものと推認することができる。
なお、原告本人尋問の結果中の、博が、日本酒であれば、一升でも一升二合でも飲める程度に酒に強かったとする部分は、前掲各証拠に照らしてにわかに措信し難く、また、(証拠略)中の、八雲警察署から博の飲酒量が平常は五合程度(〇・九リットル)と記載されていると説明があったとの部分も、同警察署がいかなる情報源又は根拠によってかかる事実を把握し得たかを明らかにする証拠が全く存在しないので、直ちに措信することはできない。
5 博の転落の原因について
右1ないし4によれば、博は、本船食堂で約五合(〇・九リットル)の日本酒を飲み、相当程度に酔った状態で、小用をたそうとして、食堂に隣接して設けられている便所ではなく、各乗組員が平常その目的に利用している右舷船尾の本件開口部に至り、当時、海上は穏やかで、船体の動揺はほとんどなく、また、本件開口部付近を照らす照明設備にも異常はなかったが、飲酒による酔いのために、体勢を崩し、偶々転落防止用の鎖が掛けられていなかった本件開口部から、海中に転落したものと認められる。
6 職務上の事由の存否について
船員保険の被保険者等が事故によって死亡した場合に、その死亡が船員保険法五〇条一項三号所定の職務上の事由によるものとされるためには、当該事故が、被保険者等と使用者との労働契約に基づく使用者の支配関係の下において生じたものであること(職務遂行性)及び当該事故が労働契約に基づいて使用者の支配下にあることの危険が現実化したものと経験則上認められる関係にあること(職務起因性)を必要とするものと解するを相当とする。
(一) 職務遂行性について
船舶に乗船中の船員については、船内労働の特殊性により、船舶が出港してから入港するまでの間は、たとえ賃金計算の基礎とされない非拘束時間であっても、船内にある限りは、継続して船舶所有者(使用者)の支配関係の下にあるものということができ、したがって、例外的に右のような船舶所有者の支配関係から脱したものと評価し得るような特段の事由がない限り、職務遂行性が認められるものと解すべきところ、本件事故が、本船の出港から入港までの間の仮停泊中に、本船内で生じたものであることは、1のとおりである。
しかして、被告は、本件事故当時、博が酩酊状態にあって職務を遂行することが困難な状況にあったので、職務遂行性を認めることができない旨主張するところ、本件事故当時、博が飲酒のため相当程度に酔っていたことは4のとおりであるが、それがため、一等機関士としての職務その他の職務命令に基づく各種船内労働を行うために要求される職務遂行能力を全く欠いていたとまで認めるには至らず、また、他にこの点を首肯させるに足りる証拠もないから、被告の右主張は失当であり、他に、博が船舶所有者の支配関係から脱したものと評価し得るような特段の事由の存在を認めるに足りる証拠はない。
そうすると、本件事故について職務遂行性が存在しないものとすることはできない。
(二) 職務起因性について
(1) 職務起因性は、右のとおり、当該事故が労働契約に基づいて使用者の支配下にあることの危険が現実化したものと経験則上認められる関係にあることを意味するものであり、それ故、船舶が出港してから入港するまでの間は継続して船舶所有者の支配関係の下にあるものというべき船舶に乗船中の船員であっても、休憩時間中に私的行動をとっていて生じた事故については、当該事故が船舶施設に起因して発生した場合に限り、職務起因性があるものと解するを相当とする。
原告は、事故について職務遂行性が認められる以上、これが休憩時間中の私的行為、特に小用をたすなどのような通常有り得る生理的必要行為によって生じたものであるとしても、当然に職務起因性が認められるべきであると主張し、また、事故が船舶施設に起因して生じた場合には、職務遂行性及び職務起因性の存否を問うまでもなく、それだけで職務上の事由に該当するものと解すべきであるとも主張するが、いずれも独自の見解であって採用するを得ない。
(2) 本件事故は、博が休憩時間中に、私的行為として、小用をたそうとした際に生じたものであることは2のとおりであるから、本件事故が、本船の施設に起因して生じたものであるかどうかについて検討する。
ア 博は、小用をたそうとして本件開口部に至り、同所から海中に転落したものであるところ、その際に本件開口部の転落防止用の鎖が掛けられていなかったことは、5のとおりである。
イ しかしながら、1ないし5によれば、本件事故当時は、海上は穏やかで船体の動揺はほとんどなかった上、本件開口部付近を照らす照明設備にも異常はなかったのであるから、かような状況の下においては、船員としての通常の注意能力をもってすれば、本件開口部付近に至ったとしても、同所から海中に転落することは、転落防止用の鎖の有無にかかわらず、一般的には考え難いものというべきである。そして、それにもかかわらず、博が同所から転落したのは、飲酒によって相当程度に酔っていたのに、あえて小用をたそうとして同所に至り、同所で酒酔いのため態勢を崩したことによるものである上、本件開口部が、各船員において平常小用をたすために利用されている場所であるとしても、本来はそのような用途で設けられたものではなく、本船には食堂に隣接して便所が設けられており、その利用に格別の不都合があったとも考えられないところ、仮に、博が、自己の酔いを考慮して右便所を利用したとすれば、本件事故は生じなかったことは明らかであるから、本件事故は、専ら博の極めて不用意な行動に伴って生じたものであって、本件開口部の鎖が掛けられていなかったことをもって、本件事故の発生に係る船舶施設の瑕疵とまでいうことはできない。
そして、他に、本船に本件事故を招来するような危険のある設備が存在したことを認めるに足りる証拠は存在しないから、結局、本件事故について職務起因性の存在することは認められない。
7 以上によれば、博の死亡は、職務起因性を充足していないから、船員保険法五〇条一項三号所定の職務上の事由によるものであると認めることはできないといわざるを得ない。
三 よって、本件処分は適法であり、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 鈴木康之 裁判官 石原直樹 裁判官青野洋士は転官のため、署名捺印することができない。裁判長裁判官 鈴木康之)